2003年6月現在私は愛媛県東予地方の在住で、欲しいと思える中古CDにめぐりあう機会が少ない。もともと田舎の出身なので「世間的に売れていない」歌手のCDとなるとなかなか入手しづらかったということもあって普段はあまり気にしないのだが、逆に何か機会があるといろいろ探すことになる。
この「明日への扉」の入ったアルバム「ON YOUR SIDE」も関西地方某所で掘り出したものである。
この歌は細坪自身の作詞作曲で、「幾千の時が過ぎた遙かな未来」の「僕たちの子供ら」を思い、「今生きるもの」の「文明という名の亡霊」によって「この星が死んでいく」のに「僕たちはどうして耳をふさぐのだろう」、「子供らが生きていく明日への扉のその鍵を拾うのは僕ら自身」なのに...という歌である。
私の所感はこうだ。
「こんなに優しい歌なのに、どうしてもっと易しい言葉で歌えないのだろう」
この歌の生い立ちを知らないので、こんなに簡単に断言してはいけないのだろうと思うが、しかしどうしてもこの思いを拭えないのである。
おそらく渾身の作だと思うし、主張もよくわかるし、共感できる。しかし、どうしても肩に力が入ったように感じられる。仮に私がこの歌を歌うとしても、「自分なりに歌う」ところまで行き着くのはなかなか難しそうだ。これは想像の域を出ないのだが、細坪本人も苦しんだのではないかと思う。
このアルバムを含めて決して「よそゆき」の言葉で語らない細坪の歌が、この歌に限ってそうではないのはなぜなのだろう。たぶん、
「普段から『環境保護』『戦争反対』などと言っている人が、ほんとうに自分が思っていることを語ってこなかったのではないか、またそういったことを許してこなかった雰囲気(=理路整然と議論を組み立てていかないといけないという、本人を含めた周囲の錯覚)があるのではないか、また仮に心からの言葉があったとしても、それがどこか(どこかな?)で易しい言葉から難しい言葉に置き換えられてしまっているのではないか」、そのために細坪もこんな言葉で語るほかになかったのだろう。
とはいえ、この歌は単なる自然への賛歌にとどまっていないし、かといって人類のみの視点にとどまってもいない。やや人類中心の価値観にひきずられているところはあるが、一般の認識からみれば十分な平衡感覚である。特に「子供らが生きていく明日への扉のその鍵を拾うのは僕ら自身だ」という一節は、これから生きていくわれわれの戒めとしなければならない。
といいながら、今日も私は「最後の階段を昇り始めた文明」の先端をいくモノを作っている。「幾千の時が過ぎた遙かな未来」の子どもたちは、私たちが産み落としたものにどんな思いを寄せるのだろうか。 (2003.6.25記)