吉田真里子「エチュード」

景色を通じて感情を歌う歌(と歌手)が好きだ。最近そういう歌がないように感じてしまう。というと、単なる懐古趣味にとられるかもしれないが、それは音楽界のせいではなく私が熱心に追いかけていないからかもしれないし、単にそういう歌が流行っていないからなのかもしれない。または、そういう歌を歌える雰囲気のある歌手がいなくなったのかもしれない。
この曲は世に出てから20年近く経つけれども、上に言ったような意味で、わたしにとっては今でも色褪せていない。いまだによく聴く歌の一つである。

タイトル「エチュード(=練習曲)」からも想像されるように、この曲は“練習に終わった”叶わなかった初恋を、あとから振り返って歌った歌である。
(脚注1)
「今 還らぬ季節の中で」という短い言葉から始まるこの歌は、「憂鬱な坂道を立ち止まっては 鞄を持ちかえ 歩いたね」といった調子で、目に映る風景に自らの感情を込めて歌っている。すなわちさきほど述べた「景色を通じて感情を歌う」歌である。この歌のはじめのくだりを聞くだけで、初恋であるがゆえ、自分自身の感情をうまく表現できなかったりうまく抑制できなかったり、あるいは相手の感情をうまくくみとってあげられなかったりという「不器用」さと、そのために招いてしまう「憂鬱」さを、視点を固定した短い歌詞と吉田真里子の愁いを帯びた声がうまく表現していることがわかる。この点、この歌は村下孝蔵風といった指摘があるけれども、私自身、さきに述べた「風景を通じて感情を歌う」という点で共通しているように思う。
ということはつまり、この歌詞が簡潔なものであり“風景が感情を物語る”ゆえに、歌い手一人だけの物語として完結するのではなく、聞き手がそれぞれの初恋や失った恋を思い出してなぞっていくこともできるのだろう。聞き手はべつに「鞄を持ちかえ歩いた」たりしなかったかもしれないけれど、この歌が歌う風景を思い浮かべながら、初恋や失った恋での憂鬱さ、不器用さ、せつなさをこの歌に重ねていく。
だから、この歌の最後に繰り返される「今 還らぬ季節の中で」という言葉のあとの後奏には、余韻を感じないわけにはいかない。この曲はたいへん簡潔で、初恋は「残酷」で「不器用なもの」で、「好きとさえも言えないまま」、「消えない罪の景色」であり「果てない悔いの景色」であるけれども、もう「還らぬ季節」である、ということを歌う歌であるうにもかかわらず、である。
この歌については、この歌自身にならって、これ以上くどくどとは言わない。この曲を聴いてもらえれば、おそらく誰にでもわかるだろう。残念ながら吉田真里子は既に引退してしまっていて、メジャー時代のリリースはすべて廃盤になっているが、ぜひ中古CD屋をあたって、吉田真里子のアルバム「ポルトレ」を探してほしい。探し当てるのはちょっと難しいかもしれないが、ほかに収録されている曲を含め、聴いて損のない一枚だと、わたしは思う。(2008.10.11)

「エチュード」歌: 吉田真里子
作詞: 和泉ゆかり
作曲: 山口美央子
編曲: 武部聡志
アルバム「ポルトレ」収

(脚注1)
このくだりからあと、リンク先亡失のため、このさき三段にわたって記述を変更しました。もとの記述は以下のとおりです。また、これとは別に冒頭部分は年月の経過にあわせて「世に出てから10年以上経つ」を「世に出てから20年近く経つ」に変更しました(いずれも、もとは2002.9.30記、2008.10.11変更)。

実はこの曲にはすでに<A HREF="http://www.asahi-net.or.jp/%7Eku5m-fji/izumi2.htm">すぐれた評がある</A> ので、そちらを参照してくださってもいいのだが、私は別に書きたいことがある。
この曲は、初恋は「残酷」で「不器用なもの」で、「消えない罪の景色」であり「果てない悔いの景色」であるけれども、もう「還らぬ季節」である、と歌っている。こう書くと、「それで?」というところだけれど、この曲はそれでほぼ全てを言い尽くしているのである。
そこで冒頭に戻る。この曲は「景色」を歌っていて、感情としては、今は「罪」を感じていて「悔い」でもある、とは言っているが、それ以上にくどくどと説明はしないのである。しかし、吉田真里子の愁いを帯びた声が、感情をよく物語っている。これは、吉田真里子という、ある意味で中途半端な存在だからこそできたのかもしれない。歌詞といい曲調といい、アイドルまたはアイドルを経験した歌手にしか歌えないが、「歌は歌うけどちょっと...」というアイドルには歌えない歌なのだ。


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