近年、音楽市場は利益を追うあまりに若年層を向いていると言われている。残念ながら私も、賛成せざるを得ない。もちろん私たちより年輩の歌手もいろいろなメッセージを出しているのだろうけれども、“売れる”歌への偏重のせいか耳に入ってくる機会が少ない。もっとも、私は以前はAMラジオをよく聴いていたのに今はほとんど聴いていないから、特にそういう感触を抱いているのかもしれない。
そういうわけで、CDショップを覗く機会に、新品・中古に関係なく、またあえて流行から外れて、私に合った歌を探そうと気にかけている。私の場合は、AMラジオで歌を聴いて(歌って?)育ってきたせいか、同年代よりも上の歌手を手がかりにしようとする。たとえば別稿のふきのとうや細坪基佳はそういった中から探し当てている。本稿に取り上げる「緑の季節」もそうした中の1曲である。
それからこれは徐々にページを増やしながら気づいたことだが、「山本潤子」「細坪基佳」「吉田真里子」(etc.)と並べていくと、声のとおりがよいことが共通しているようだ。私は小さい頃から合唱のたびに足をひっぱってきたほどだから、そういう歌手に一種のあこがれを持っているのかもしれない。
「緑の季節」はロッテ・グリーンガムのCFで流れていたので、ご存じの方は多いと思う。また、'97年というとサッカー・ワールドカップで日本代表が予選を苦戦しながら勝ち残っていった時期で、例の「翼をください」のおかげで山本潤子自身もテレビによく出演していたから、そういう意味あいで記憶に残っているという方もいらっしゃるのではないだろうか。
この歌は、「忙しいことは知ってた」「あなた」を、週末「無理に誘っ」て「緑の香りが」する場所へ連れ出して、「緑の季節は変わらない」ように「あなたのやさしさ」も変わらないことを確かめ、「せせらぎ」の音が「静けさだと」感じられるように、「争いも悲しみも安らぎも人の心から生まれるもの」(だから、もっとやさしくなろう、ということかな?)と歌っている。
率直にいって、この歌は都市に住む人の発想を越えないと思う。「週末の街を脱け出」して森に入ると、「緑の季節は変わらない」という発想。いまや、山や林に入って感じるのは、それがひどく荒れていることである。私が田舎にいたころの山と、今のそことは、残念ながら以前ほど山に人が入っていないようで、ずいぶん違っている。山道だったところに草が生えてきている上にすべりやすくなっていることに気づく。また、少し以前ならきれいに間引きされ枝打ちされていた杉や檜のほうも、今や伸ばし放題、枝も枯らし放題というところで、この歌に歌われているような世界ではなくなってきている。緑の季節も、変わってきているのだ。さらにいえば、田舎の子どもたちでさえ山に入って遊ぶことがなくなっているようだ。
くどくどケチをつけてきたようだけれども、この歌はいい歌だと、正直に思う。だから、現実を嘆くのではなく、「緑の季節は変わらない」ようにするほうが正しいありかたなのだろう。田舎にたまに帰って親兄弟に顔を見せるだけではなく、山や林に入っていくようにしよう。田舎のない人も、何かの機会で田舎を訪れるときには、田舎の公園の敷地の中からちょっとはみだして、森や小川を自分の目で確かめよう。そうすると、田舎のこと、山や川のことを見つめ直すことができるかもしれない。
それに、そうすることでこの「緑の季節」という歌の世界をもっと近くに感じることができるはずだと思う。 (2003.11.2記)