今日も日付が変わる直前まで仕事。うむぅ...
午前中からくすぶって昼過ぎに散髪に出かけたが帰ってきてもずるずるとひきずって休日が終わる。ははあ。
実はきのうも日付が変わっても仕事が片づかない状態で、しかも午前中から昼過ぎまで軽く出社したら疲れが出て、そういえば今週ちょっととばしすぎたなあと反省。それで帰ってきたらすぐ寝てしまったのだけれど、これが却って仇になって夜になったら寝られず、さらに疲れをためる悪循環。
スキミングによる被害はずーっと言われていて、人混みに入るとカード情報をとられるという話があったのも知っていたが、今頃騒がれるなんて。
だいたい、4ケタの暗証番号を1パターンしか持ってないなんてセンスないなあ。私は、よしんば身内にわかっても他人には絶対わからない4ケタの数字をいくつかパターンとして持っているから、それを使い分けている。
よし。ああいう暗証番号付きのロッカーに預けることなんていままでなかったけど、誕生日4ケタにしよう。カードの暗証番号には使っていないし。
いや〜、朝からすごいものを見てしまいました。これ、朝っぱらから、ニュース読むスタジオで、シュールストレミングというまあ言葉でどう言い表していいのかよくわからないほどものすごいにおいのする缶詰を空けてどれほどのにおいか測ってみるというとんでもない企画で、こんな企画よく通したなあと思ったのだが、さらにとんでもないことに、空けきって2分もしないうちにその場所で定時ニュースを読むという残酷な状況を作り上げてしまったのだった。
キャスターの中澤さん、涙目で必死にニュース読んでました。そらもうこっちが気の毒になるほどでしたが、そのあとに出てきた水野さんも飄々とニュース読んでました。さすがプロです。
ええっと、もう証拠もないのでこんなところで白状するのだけれど、以前にオーロラを見にスウェーデンへ行ったときに同道した方がそこらのスーパーで買って帰ってきて、それはそれはもう必死に神に祈って飛行機に持ち込んだのである。放送で紹介されたとおりこの缶詰は空輸禁止で、爆発するともう収拾がつかないことは覚悟のうえ。なんとか無事に持って帰ってこれたらしく、その報告を兼ねた集まりでそれを...やっぱり、外で空けたね。外で空けたのと遠巻きに見ていたのとであんまりありがたみがなかったのだけれど、まあそれでも服にうつるぐらいのにおいはしましたです。はい。
やっぱり風邪気味で薬買いに出たのだった。そのあと仕事に戻ってみたら日付が変わるのであった。
火曜日で、仕事を見捨てていつものようにヨガへ行く途中でノドが腫れているのがなんとなくわかったので、明日を心配したが終わったらそうでもなかった。帰ってきたら疲れが出て寝る。
午前中まで耳鳴りに苦しむ。昼過ぎからようやくまっとうになったが、どうやらやや風邪気味のようだ。
引き続き耳鳴りがする。昼からちょっとましになったかな。
えーっと、朝から耳鳴りがぜんぜんおさまらなくて、1日苦しんでいた。
なんだか夜おそくに耳鳴りがしはじめて、あわてて帰る。
「せかいのじょうしきはにっぽんのひじょうしき」。まあ、国連中心主義などと政府はいつも言うが、それを都合のいいときにだけ口にすることは、試しにGoogleで「国連 勧告 日本 人権」などと並べて検索してみたらよくわかるだろう。
まあ、一事が万事ということなのだろうね。
どうやら昨日、朝日新聞に取材経過が出ていたらしい。
せんせい!「安倍さんに番組の内容を説明すること」と、「私に番組の内容を説明すること」の違いってなんですか?私も受信料払ってるのに、安倍さんに説明して私に説明してくれないのはなぜですか?教えてください!
単に「わしはNHKから挨拶されるぐらい偉いんやぞ」と言いたいんだろうか。それとも、よくみられる「同じ日本人を悪く言うな!かりにも日本軍人が、強姦じみたことをするわけないだろう。そんなバカなことを言うやつとは、わしは違うぞ」と言いたいのか。
ええっと、偉いことはおめでたいことですね。うらやましいです。
いちおう、ふたつあるんだけれど。ひとつはまあ、同じ“日本人だから”悪く言ってはいけないのか、ということ。「アメリカ人」のことなら悪く言っていいの?「イギリス人」は?「インドネシア人」は?「イラク人」は?「朝鮮人」は?「中国人」は?...あなたたちは「同じ日本人」でも、なにか犯罪をおかしたアカの他人のことなら悪く言うでしょう...まあ、あなたたちにとっては「『同じ』日本人」ではないだろうけどね。
または、「日本人だから日本人を悪く言ってはいけない」のだったら、「アメリカ人は日本人を悪く言っていい」のか?「インドネシア人なら日本人を悪く言ってもいい」のか?...それはつまり、「アメリカ人に悪く言われるのも仕方ないなあ」と思うか、ということ。「インドネシア人に悪く言われるのも仕方ないなあ」と思うか?...インドネシア人に言われたら、そう思うところがないわけではないけど。そうじゃないのなら、結局それは「昔のひとを悪くいうな」というだけのことだ。あなたに言われなくても、そんなことはわかっているよ。
もうひとつは、「かりにも日本軍人が、強姦じみたことを」したという証言、またあげくにその女性を殺害したという証言までもここで触れるまでもなく多数あるということだ。「同じ日本人を悪く言うな」という論理はここでみごとに崩壊する。つまりその人も日本人なのであるから、その証言をした人に向かって「日本軍人が強姦じみたことをするわけないだろう」と言うことは「同じ日本人を悪く言う」ことになるのである。まあ、「『同じ』日本人」には入れたくないだろうけどね。
結局はこういう場で“日本人”という、誰でもない実体のない“人”を持ち出して、その実体のない“人”へのシンパシーを駆り立てて、得点を稼いで票をとりたいということにしかすぎない。よく聞いておいて次の選挙で落としてあげましょう>女性のみなさん
いちおう忘れないように、さきの記事でご登場になったのは
のお二人。
何がなにやらさっぱりわかりません。へろへろで仕事してました。
センター試験の問題をみていて、ふと思い出したこと。
日本では衆議院議員の性別比率が93:7と非常に偏っている。もちろん93が男性で、7が女性なのである。
これ、実際にはどのくらいからそうなるかはわからないけれど、あくまで仮説としていうと、
これだけの比率になると、女性じしん、女性の論理で行動することがしにくいのではないだろうか。女性が男性の論理に埋没することになれば、女性でないとできない仕事に目が向けられなくなるだろう。女性の候補者の人数が増えるよう、なんらかの優遇措置がとられてもいいのではないか。女性は、「少数民族」ではないのだから...いや、少数民族にはその声を国の政治にも反映しなければいけないけれど。
国営讃岐まんのう公園でのリレーマラソンに参加。この日エントリーした方が都合があわなくなったということで、急遽代役(...にはならんけど)で人数あわせのためにわざわざ早起きしたのでありました。
リレーマラソンというのは初めて聞いたのだけれど、要するに42.195kmを人数かけて走る(途中で何度も交替可なのだそうだ)ということで、一周2kmのコースを21周と、スタートとゴールの選手でちょいずつ走るという寸法。ただし一周の途中での交替はナシ。
まあ、いつもそんなにリキ入れて走っているわけではないので、だいたい10分ほどかかって2km走って、だいたい20分休んでまた走って、を3回くりかえして終わり。都合6km走ったことになるわけだ。はじめの1周がしんどかった。あとの2周はなんか結局流しただけになってしまい、いまひとつ納得できない出来になった。
帰りに満濃トライアングルの一角、長田へ寄ってたらいでいただく。うん。だしがいいね〜。うどんがしっかりしてないといけないけど。
懲りないねえ。何度も言うけれど、「公平、公正な報道」というものを明らかにしなければ、百万人いれば百万通りの「公平、公正」が存在することになってしまう。もしやるとすれば、「公平、公正な報道」という言葉の中身、つまりこの場合はどのような番組にするべきであったと考えるかを安倍さんがはっきりと明言しなければいけない。やってもしかたのない議論だが、議論に「なる」ようにするためにはそれが必要だ。しかし安倍さんはそんな発言はしないだろう。すれば結局安倍さんが多方面から「おまえが決めるな」とツッコミを食って不利な議論となることは目に見えているからだ。いずれにせよ権力をもつ人が「公平、公正」を名目にメディアから自分たちの主張に反するものを少しでも減らし、あわよくばなくしてしまおうと考えることは、そのことそのものが犯罪的行為であるといっていい。
うかつにもホイヘンスが土星の衛星に着陸する日を忘れていた。まあ、私にとっては当分この星の名前は禁句だけど。
はてさて。新しい事実がどれだけわかったのかさっぱりわからないけれど、新聞の論調が動き出したことはたしかだ。「公正中立」ということばをどう解釈するかにも注目してみよう。
15日付読売。冒頭の言「公正な放送のために、NHKの上層部が番組の内容を事前にチェックするのは、当然のことではないか。」をそのまま信じれば、読売新聞では、“公正な”報道のために、幹部が毎日朝夕刊を発行前にチェックするのは、やって当然らしい。...あのねえ。いったい、読売の地方版ってどれぐらいあるのか。朝刊のはじめの版から夕刊の最終版まで1日にいったいどれだけ版を重ねるのか。いちいち“公正な”報道を確保するために、どの記事が公正でないかチェックするものか。読売新聞の幹部になって、やって当然のことをやろうものなら、1日じゅう新聞読んでも時間がぜんぜん足りない。他の仕事だってあるだろうに。
そりゃまあ、NHKだって、上層部が事前に番組を見ることもあるだろう。しかしそんなこと、いつもどの番組に対してもやるわけではない。だいたいNHKって、ラジオも含めてどれだけのチャンネルで放送しているのか。1日にどれほどもある番組の中で、その番組に上層部が目を通すことの意味を、いったいどうとらえればいいのか。それに政治家のところへ行ってわざわざ内容を説明するというのは、これはいったいどういうことなのだろう。
何でもいい...たとえば、食品会社が新製品を持って政治家のところへ自らすすんで挨拶に行くなどということは、あるかもしれないし、ないかもしれないけれど、まあ、あまりないだろうね。造船会社が新しく豪華客船を作ったからといって、わざわざ港へ回して政治家を個別に招くなどということは、もっと考えにくい。製鉄会社が新しい方法で作った鋼板を政治家のところへ持って行ったり、製薬会社が発明した新しいガンの薬を政治家のところへ持って行ったり、などというのは、もうこれはまったく考えられない。
あたりまえだが、中川さんと安倍さんという二人の政治家にとって意味のあることがらだったからこそ、NHKはわざわざ説明に行ったのである...それが放送の前だろうが後だろうが、呼びつけられたか進んで行ったかには関係ない。どう意味があるかというと、あからさまに言えば票だ。自分を支持してくれて投票してくれる層が減ったり、そういう人たちの言うことに反対する主張が増えてくれば、中川さんと安倍さんは相対的に票が減って困るということだ。
産経15日付。番組内容を検証するって?じゃあ、たとえばプロ野球の観衆、一方的に主催者が発表していて全然公正でも中立でもない数を平気で紙面に載せているけれど、あれを検証してみますか。よく言われるように、東京ドームの観衆はいつも「55,000人で満員」だけれど、あれって消防法に違反しているんだけど。球場に足を運ぶ観衆は、手間はかかるが数えることは可能だから、自分たちもそのあたりから始めてはいかがだろう...NHKに「公正で中立的な内容」の番組を求めるのなら。
何度もいうが、産経は言葉の使い方があいまいで、ここでいう「公正で中立的な内容」とはどんなものか、まったく触れていない。あるいは“偏向”という言葉も使っているが、何をもってそのように判断するのか。そこを曖昧にしたままでは、中川さんや安倍さんと同じように、「“公正中立な”番組づくりを求めるということは、言葉を換えれば『自分たちの主張を入れろ』というもの以外の何者でもない」ことになるだろう。
さらに毎日も15日付。NHKが政治に弱いと指摘しているが、それを言うのなら、NHKよりも民放のほうが弱いのではないか。なるほどNHKの予算決算は国会の議決で承認されるという弱みがある一面、民放は国会の議決などなくてもスポンサーがいれば番組が作れるが、大手のスポンサーは政治権力に敵視されることはまず望まないから、スポンサーをつなぎとめたいと考えれば、番組の内容はどうしても権力に迎合することになってしまう。民間放送だって免許制なのだから、それはなおさらだ。
そういえば、毎日の社説は公正だとか中立だとか偏向だとかいう言葉を、発言の引用としてしか用いていない。公正とか中立とかいった、“反証可能性”のない中身に触れなくてもこの問題を論じることができるという姿勢がみえて、私には好感がもてる。
はて。木曜からトラブルに追い込まれてぜいぜい言いながら仕事を片づけるが、はっきりいってその日暮らし状態...日付が変わるちょい前に小トラブル発生してさらにずるずると仕事するハメになる。
あれれ。どちらを信用しようか。どっちにしろ、昨日書いたことの中身に影響しないからいいけど。公正中立な放送をしないといけないと思っていることには変わりないのだから。
昨日の考察からいけば、番組づくりに直接口出ししていようがいまいが、権力に近い人々が「公正中立」であることをメディアに求めることそのことが問題であるといっていい。権力に都合の悪い情報がすべて止められてしまう。ただ実際には、メディアは既に権力のものになりつつあるようで、中川さんと安倍さんの場合はわかりやすく調子に乗ってしまっただけだろうけど...
まあ、本人も認めているからね。実はこの件は以前から問題になっていたことを私もどこかで読んだ記憶がある。これは放送法に触れるとかいったことではなく、権力をもつ男性が女性への人権侵害をあからさまにもみ消そうとする暴挙であるとしたほうがより正しい。中川さんと安倍さんにおうかがいしたいが、内容が“一方的に”「戦時中に性的暴力はなかった」というものであれば、それは放映してもいいのだろうか。
答えはたぶん「Yes」であろう。つまり“公正中立な”番組づくりを求めるということは、言葉を換えれば「自分たちの主張を入れろ」というもの以外の何者でもない。反対に「自分たちの主張だけに偏っている。これこれこういう主張を入れてやれ」という要求をする人はまずいないだろう。自分たちの主張が他人から見てどれだけ本当であるかに関係なく、「公正中立」というもっともらしい言葉を使って、これに反する主張の影響を弱めたいのである。彼ら権力をもった人々や権威のある人々が「公正中立」を他人に求めることは、そういった背景を持たない人々がそれを求めることに比べてどういう意味をもつのだろう。
またそれはそれとしても、もし「公正中立であること」が可能であるなら、それはどのようにして可能となるのだろう。その手続きを明らかにしない限り「公正中立」はあり得ないが、ではその手続きはどのように決めるのか。その決め方は「公正中立」に行われるのだろうか。
これは決して言葉遊びではない。ここまで考えれば結局「公正中立」なるものは幻想に過ぎないことがわかるだろう。ただこれは、「公正中立」を求める人の主張の中身とは全く関係がないので、そのもっともらしさは別に検討する必要がある。その上で、自分たちの表現しようとする内容に照らして、彼らの言う「公正中立」つまり彼らの主張をどの程度盛り込むか、あるいはもうまったく取り合う必要がないかを決めることだ。ただしこのとき、上でみられるような、一方の主張の主旨を曲げるようなことは、いずれにせよやってはいけない。
愛媛新聞11日付社説から。ノロウィルスといえば、知り合いのさる施設長の方のところで騒ぎになったことがあって、結局共通する食事から消去法で原因とされてしまって、お詫び行脚で肉体的にも精神的にもお疲れになっていらっしゃった。一般的にはカキのような貝類を生で食べたら感染すると聞いていたが、このときは貝もなければ魚も出てないということで本当の原因はわからずじまいであった。
まあ、ここまで騒ぎになった以上、今回の一連のウィルス禍についてはどの事例についてもある程度以上の確度をもった推定原因を追究することになるだろう。
このあたりの問題としては、やはりO-157禍での「カイワレ大根が原因と断定できないが、可能性も否定できない」との厚生省(当時)の中間報告が思い出される。
このときは、一般的には「結論を出すのが性急にすぎた」と受け止められているだろうし、裁判でもそのような結果となったが、これはこの報告がカイワレ大根を作っている側に与えた影響に基づくものであって、科学的な考え方に基づけばこの報告は断じて正しかった。
同じことは、モノを作る現場では当たり前に行われている。たとえば、ある共通した不良が頻発するので、これらのモノに共通したことはないかと調べたら、ある工程を特定のひとつの装置で行っていたことがわかった。こうした際、まずこの装置を避けることが先決で、なぜその不良として現れるかの原因追究はそのあとから行われる。たとえおおもとの原因がその装置になくても、である。
それは、「不良品を少しでも減らしてムダなものを作らない」モノ作りの論理が大前提にあるから許される、というよりは当然のことである。この場合は、「O-157禍の被害を少しでも減らす」ことを目的とすることがその論理にあたるだろう。そう考えれば、当時の厚生大臣であった菅直人氏の「被害が広がる中で共通食品だったカイワレについて専門家の助言を基に発表したのは間違っていないと今でも考えている」というコメントは納得できる。
その後にこれを補強する証拠が出てこなかったため、最終的には「原因不明」とされてしまった。すると、いったんは原因とされた側が、“不当に名指しされた”とするのも無理のないことである。“風評被害”でカイワレの売り上げがガタ減りしたことに対し、何らかの補償を行うことについてはやむを得ない。また、このときの生産から出荷までの管理方法が(すべての業者で守っていたとしても)そもそも万全であったのかという点についても考慮しなければならなかったはずだ(そしてまたこれに基づいて対策を立てなければならなかった)。
しかしそれはこのように司法の手で解決するべきではなく、行政が自ら解決を図ることであったはずだ。科学的な考え方に基づいて間違いなく調べたものであっても、その結論に対しては社会的な影響を考慮して各方面の調整を行うことが必要で、それはほかでもない行政の仕事であったはずだ。
さて、今度はどうなるのだろうか。
作っているほうは硬派、見ている方は軟派(?)のJNNニュースバード、早朝の新コーナー「ドクター月尾 地球の方程式」を見たが、いきなりなかなか微妙な問題を扱っていた。自然の価値を金額で評価したらどうなるかという問題で、これ、具体的にどこどこの川にダムを造ったら、とか、どこどこの山林を切り開いて工業用地にしたら、とか、そういうところへ使うときに意味のある方法だろうと思う。これをいわゆる“自然環境”に適用した場合、「人間さまが自然を値踏みする」姿勢が見え見えであまりよくないと思うのだが、一方で「自然の価値は膨大なものである」という結論になることもまあ簡単に想像がつくので自然環境の価値の重さを実感することもできるだろうから、それはそれで悪くないとも思う。そこをとっかかりにして「人間さまが自然を値踏みする」価値観の危うさに気づくこともできるだろうし。
で、コーナーは四万十川の価値にはじまって、森林や湖沼、干潟などの価値を評価し地球環境が年いくらいくらと算定していたが、大気と並んで肝心なものの評価がすっぽり抜け落ちていた。ま、そのへんが経済学の限界といえばそうかもしれないが、
それはずばり「太陽の価値」である。地球環境に値段をつけても、太陽なしにはまったく意味をなさない。また、太陽があるからこそ今地球にある資源、今の地球環境があることは、あえてここで研究の成果をひくまでもないだろう。
そんなふうに「今の地球環境があること」を起点に考えると、衛星である月のおよぼす作用にも価値を見いださないわけにはいかない、その潮汐力は、たとえば水産資源に大いに影響するし、地殻変動にも関係するという説に従えば地下資源の形成にも影響するかもしれない。また、地球上の水の半分ほどは彗星の衝突によってもたらされたという説もある。それら彗星の軌道には、木星の重力がおおいに影響している。さらには太陽系の起源やなりたちを考えると、太陽系の惑星や小惑星、彗星などあらゆる天体も「今の地球環境があること」におおいに関係している。その発想からいけば、銀河系の値段、銀河団の値段、はては宇宙に値段をつけてはじめて自然の値段をつけたことになる。私は経済学のことはあまりよくわからないのだけれど、これで値段、つけてみますか?
ついでに、私のことを「頭が固い」と批判する人がいて、そういう部分があるのは認めないわけではないけれど、これで経済学のほうで「人類が利用できる資源の値段だよ!」と言ったりしたら、私よりよほど頑固だろうね。
日曜は朝から森研究員「日本一の『なゆた望遠鏡』で彗星を見よう」(だったっけ)。講演の前に森さんと話をして、「何が出てくるかわからない、でしょう?」と言ったら「結論を先に言いましたね」と言われてしまった。ひやあ。
私自身、ヘール-ボップ彗星を60cm望遠鏡で覗いたら吹き出すジェットが層状に見えたことを強烈に覚えている。素人なので、見たときにはその意味はあまりよくわからなかったけれど、彗星って大きい望遠鏡で見たらこんなふうに見えるのかと感心した。
内容は森さんご本人の彗星に対する思いなどもまじえ、大望遠鏡での観測成果をひいて、明るい彗星または太陽に近づく彗星をあらゆる波長の光で観測し、彗星の成分や構造を明らかにしようというものであった。
そのあとは正月の餅つき。別に何をしたわけでないので、恐縮しながらいただく。
例会のあと、ニノミヤ岡山南店に立ち寄って、いつものように中古CDを漁る。まだ吉田真里子「ポルトレ」が売れてないなあ。あっ、値下がりしている。どうしょーかなー。でも買うてもこれで3枚目やし、ええか。...お、森高千里「NEW SEASON」があるぞ。おお!森高千里さまのファーストアルバムでないか。しかも捨て値だ。すばらしい!拾っていこう。ええっと...あ、杉本理恵「銀河の空想(ゆめ)」があるなあ。これも拾おう。よしよし。
そのあと市内には寄らず、宇高国道フェリーに乗る。ちょっと本を読んでいたら眠くなってしまい、そのまま寝る。次に気づいたら「あー、よう寝た...しまった。あれ今どこ?」。慌てて見回すとまだ船は海の上。よかった...高松までまだ時間がありそう。ふう。一度高松に着いても寝てしまっていたことがあったので、ほんとうに慌ててしまった。
高松へ渡って西条を目指す。豊浜SAで「土居IC〜いよ西条IC 雪のため80km規制」を知る。まぢですか...三島川之江ICあたりから地面が濡れている。うわ、これはホンモノか...と思いながら土居ICを通過。路面は濡れているけれど、雲はそんなに出てない。ああ、これは大丈夫だ。そのまま雪に遭わずに西条に到着した。
帰ってきて、森高千里「NEW SEASON」が実は初版(初回プレスではなさそうだけれど)であることを知ってなおびっくり。ひええ...
午前中軽く仕事して、西はりま天文台公園友の会の例会参加のため正午に西条を出発。高松港に着いたが四国フェリーが出て行ったのを見送る形になってしまい、宇高国道フェリーの窓口で「往復」と口走って14時の便で移動する。岡山で何か食べようか考えたがちょっと遅くなりそうなので見送って、そのまま西はりま目指して移動。最後の最後、佐用で買い出しして西はりま天文台へ。
本日はお日柄もよく、なゆた望遠鏡ではじめて土星を覗いたが、これがすごい。土星本体の色が白い!こんなの初めて見た。だいたい土星はちょっと茶色がかって見えるものだと思っていたので、たいへん驚いた。60cm望遠鏡だって茶色かったじゃない!
寒かったのでそのまま階下へ。お茶しながら先日のアタック25鑑賞会になったが、「タイタン」を答えられなかったのをさんざんに言われた。まあ、押したんだからいいじゃない!笑いとらんかいって?番組の趣旨と違うやんか!
翌日から3連休なので、あたふたして仕事。またまた日付が変わるのであった。
休み明けで今日から出社。年末年始にふくらんだ仕事を片づけ切ってもいないのに、帰って気づいたら日付が変わっていた。
年頭に当たっての各紙社説をみてみよう。
朝日1日付。東アジアの連帯をよびかける内容である。
たしかに日本政府の外交をめぐる状況をかんがえてみると、アメリカ合衆国政府への依存が以前に増して深まっていく一方、隣国である大韓民国政府や、中華人民共和国政府との関わり方、あるいはそれぞれの国の世論への配慮の仕方がたいへん粗雑になっている。平和条約を結んでいない朝鮮民主主義人民共和国政府においては国内の不平のはけ口になっている感さえある。東南アジアの国々との関わり方はどうだろう?
しかしこの社説の書き出しには驚いた。わざわざ日露戦争をひいてくるなんて、どこか別の新聞の社説のようだ。このあと日本政府は膨張主義に傾き、あげくに「大東亜共栄圏」なる構想をぶちあげてアジア各地を侵略したのであったが、この社説では真の意味での“共栄”を求める意味で、欧州連合の成立になぞらえて日中の争いの種になっている資源の共同管理からはじめてはどうかと提案している。
面白い考え方である。たしかに、日本も資源に困窮して満州に乗り出し、中華民国と争いを構え、さらに南方へ侵略の手を伸ばしたのだった。資源の共同管理が軌道に乗れば、争いの芽をひとつ摘むことができる。アジア連帯にまで発展しなくても、それだけで十分価値のある内容だ。
産経1日付。正月から寝ぼけてみましたとしかいいようがない。日本の参議院議員選挙とアメリカ合衆国の大統領選挙結果のみをひいて「保守主義の勝利」と高らかに宣言しているが、では、たとえば、参議院議員選挙での得票数で自民党が第二党に甘んじたことは保守主義の勝利を意味するのか。むしろ技術的に勝利しただけで、与党の退潮の危機ではないか。
また、後段で一部の近隣諸国が“日本の進歩派勢力と不即不離の関係にある”と言っているが、大丈夫か。何をもってこのように主張するのか、わけがわからない。それにだいたい“日本の進歩派勢力”とは具体的に何を指しているのだろう。それに、近隣諸国は靖国参拝だけを阻止しようというのではない。彼らはなぜ首相の靖国神社への参拝を批判するのだろう。それは立場を替えて考えれば全然難しいことではないのだが、彼らの主張の本質をわざと伏せて妄想で筆を進めてみました、という印象を拭えない。
保守主義は大いに勝利したのだから、次の敵は腐敗や汚職などの内面の敵であって、“高い道徳性と倫理観を備えた教養ある保守主義者を育成することは国家的要請”なのだそうだ。そこでいう“国家”とは何か。何回も言っているが産経の言葉の使い方は曖昧で、ちょっと厳しく言えば人心を惑わすもとである。国家とは具体的には誰なのか。ここでいう国家を「国民」と言い換えてはいけないのか。そこであえて「国家」という言葉を使うことの意味は何なのか。それに「高い道徳性と倫理観」というのはどういう内容をもつものか。「教養ある」人というのはどういう人なのか。それらはどういうモノサシを使って測るのか。誰にでもわかるモノサシを示さないでおいて、いかにも意味ありげな言葉を並べてみても、その正しさを確かめることなどできはしない。美しい日本語だかなんだか知らないが、怪しげな言葉を使って曖昧な言い方にしているだけのことだ。
読売1日付。冷戦後の世界は「歴史的激動期に入って」おり、北東アジアから中東にかけて政情は不安定で、「集団的自衛権を『行使』する様々なケースを想定せざるを得ない」のだそうだ。
そうですか。ではそのケースを外交という手段で回避する方法はないのか。武力を行使すれば自らの国民に累を及ぼすことは自明である。そこに触れないでこんな勇ましいことを唱えてもねえ。周りが平和でなくてもよくて、自分たちだけは何かあったときの備えをしようというのでは、それこそあなたたちに「一国平和主義」の称号をささげたい。
またまた教育基本法に「愛国心」という言葉を入れようとしていて、「愛国心が是か非かなどということが議論の対象になる国など、世界中、どこにあろうか。」と負け惜しみのような一言を放っているが、誰も愛国心という言葉がイカンと言っているわけではない。「愛国心」の指す内容が問題なのである。振り返れば、さきの大戦では愛国心ということばで「国民」ではなく「天皇陛下」をお守りしたのである。じぶんの家族や隣近所や親戚ご一同様を守ろうとしたのではなく、天皇陛下をお守りしたのである。まあ、もう少し正しく言うとすれば、「天皇陛下の御名を利用した、当時の政権中枢を代表とする政治家や官僚たち」を守ったわけだけれど。つまりそこで言われた愛国心は「『天皇陛下(に名を借りた政権中枢)』が主権を握る『国家体制』を愛する心」だったのである。そしてその国家体制の権威によって、日本の国の中ではないところへ国民を送り出し、日本でなかったところを戦場として彼ら彼女らの命を散らせたのである。“教育基本法の改正”を言う人々はそれを見ず、反省もせずに「愛国心」という言葉を無頓着に使おうとする。だからすくなくとも私は、「愛国心」という言葉を、曖昧さを残して使うことに反対しているのである。「愛国心」が「国民をひとしく愛する心」なのであれば、...いや、自分の国の国民だけを愛する心では、それこそ読売がケチをつける“狭隘な”ものでしかない。いっそのこと「愛人心」と言ったら、なんか違うモノを指しているようで素敵かもしれない。(ぉ
毎日1日付。うーん、まとめにくい。国民は相反する要求を突きつけるのだから、永続性のある解を引き出すのが政治の役割であるが、政治がそれを放棄し、政府官僚とも一律主義のもとに法律を言い訳の道具にしていると指摘する。そして国政をこれまでの密室の中から開かれたものに変えようと主張している。
まあ、そうなんやけどね。今頃こんなことを言わないといけないというのも、いったいどういうことなんだろうね。
ところで。
「カリスマ占い師」らしいで。かたや土星の衛星探査をしようというほど、また人々が当たり前のように無線通信をするほど科学の進んだ世の中であるのに、まったく根拠のない主張をする人がいまだに世の中を誑(たぶら)かせているって、どういうことなのだろう。なるほど、彼女自身は私などよりよほど人生経験を重ねているし、また洞察力も人並み以上なのであろうから、助言として聞くべきものがないとはいわない。しかしそれはあくまでもひとりの人間としてそういうのであって、占い師としての評価ではない。占いにすがるなどということは“人事を尽くす”こととはまったく対極にある。見てないから内容は知らないけれど、たとえば朝鮮民主主義人民共和国に拉致された、または拉致されたと疑われる人々の生死にかかわることを占ったりするとしたら。つまりこんなオカルトを政治に利用することは簡単なことで、まさかこんなわかりやすい誘導はしないだろうが、「小泉首相はいつごろに政権維持の危機を迎えるが、こんな人が現れて危機を脱する」とか、「日本と北朝鮮は戦争になるでしょう。戦機はいついつ」などと発言させれば、見ている人々を簡単に誘導できてしまう。そもそもオカルトに関心が集まるということはその関心の高さに比例して“科学的にものを考える”習慣から人々が離れていくことを示している。多少うがった見方をすれば、人々を思考停止に追い込んで世論を操作しようという恐ろしいもくろみが進行しつつあると考えても考えすぎではない。これは警戒しないといけない兆候ではある。
そんなことを言うとなんだかすっごく論理が飛躍しているように感じるかもしれないが、たとえば(私が信じていることになっている)浄土真宗本願寺派では、さきの大戦で「仏法の名において積極的に戦争に協力」していったことをまさに“自己批判”している。特に浄土真宗においては、親鸞が説いたように阿弥陀さまがすべての人々を救うことになっているから、「宗祖の教えに背き」とわざわざ断ってまでの自己批判になっている。この一事をとっても、先の大戦においては、日本政府は人々からその信条を奪ってまで思考停止に追い込んだと考えていい。キリスト教は一貫して迫害の対象であった。それもこれも、“人々に政府に反する考え方を持たせない”ことを最大の目的とするのである。
もちろん、政府がメディアに対して占いをはじめとしたオカルトを採用するよう介入しているわけではないだろう。しかし、オカルトに染まって思考停止に陥った人々を操ることはたやすい。まして小泉政権は世論を背景に成立したのであるから、政権維持のために利用しない手はないであろう。果たしてそうなるだろうか。
ところで、せっかくなので“科学的なものの考え方”はどういうものかわかりやすく見てみたい。
よく言われる「なんで?」という疑問をもつこと、という内容はいつもいつもあてはまるわけではない。その疑問をもつことは、なにかある現象に対して使うのがよい。あることがらに関する他人の主張を検証する場合は、「その主張が正しいか間違っているか、どうにかして確かめられないだろうか」と考えること。ちょっと“らしく”言えば、「反証可能性を考える」ということかな。こう考えれば、科学がしつこいぐらいに繰り返す手続きであるところの、事実を調べてその意味をよく検討し仮説を立てて証明するところへすすむことができる。その主張をこの手続きで確かめることができないのであれば、わざわざそんなことを考える必要がない無害な話か、言っていることがメチャクチャで害をまきちらす話であるかのいずれかだろう。
占いは、時間を区切ったものであれば確かめようもあるだろうが、時間を言わなければその正しさを確かめようがない。昔の人はよく言ったもので、「当たるも八卦当たらぬも八卦」。未来を見てきたわけではないのだから、これぐらいの謙虚さがあれば「わざわざそんなことを考える必要がない無害な話」にもなるだろうが、はたして彼女ら「カリスマ占い師」の態度はどんなものだろうか。
明日は雨という前評判が高いので、万に一つ雪に変わってはまずいと考え、予定を1日早めて西条へ戻る。途中伊予銀行である程度おろしたくて姫路をさまよったが開いてなくて、目標を変更して岡山を目指す。途中備前に入ったところで給油してブルーラインを走っていたら17時までに到達できる見込みがなくなり、あわてて西大寺ICで下りて西大寺郵便局へ行ったが郵便貯金は取り扱い休止で、仕方なく金欠状態のまま海を渡る。
21時まえに帰り着いて、ばたばたとしながら寝る。
午前中に初詣に出かけたら、飲みもしないのに寝てしまう。夕方からまた後輩のところへ行ってまたひとしきり飲んで、結局飲んでばっかりかい。>わし
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昼間から高校の後輩のところへ行ってお茶をふるまっていただいて、夕方からは別の後輩のところで新年会。別に何をしたというわけでもないけれど、ひとしきり飲んで食った。お呼びくださりありがとうございました。>関係者のみなさま